3週間ぶりの映画となった『ちょっと今から仕事やめてくる』
この作品を知った経緯としては、やっぱり題名であろう。
趣味の中に映画も含まれているので、ミニシアターまで完全に網羅はしていないが、基本的に公開される作品はチェックしている。その過程でこの題名『ちょっと今から仕事やめてくる』は惹きつけられた。
社会に対し懐疑心を持ち、不安を抱き、生きることに希望を持っていない、そんな現代の若者を象徴したような性格をしている自分に(それが行き過ぎてニート生活をしてしまっているが。というか、この性格が現代の日本を象徴している時点でもうだめだろ。南無)この題名の映画を見に行かない以外の選択肢はなかった。
さぁ。過去にも題名にインパクトやこれっぽい作品は何作かあったが(何とかバレーや、部活やめるってよみたいな)この作品はそれ以上のインパクトがあるだろう。そのインパクトがこの作品のストーリーにどのように絡んでいっているのか。この作品への評価はどういったものなのか。また、作中に出てきたものの一部を紹介したり、原作小説との相違点を示していく。
感想・原作との相違点にはネタバレの内容も含まれているので注意(その部分は隠しており、【さらに読む】を押して見てください)
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あらすじ
ブラック企業で働く青山隆(工藤阿須加)は、疲労のあまり駅のホームで意識を失い、危うく電車に跳ねられそうになってしまう。
すんでのところで青山を救ったのは、幼馴染みのヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男。だが、青山には彼の記憶がまったく無かった―
大阪弁でいつでも爽やかな笑顔をみせる謎の男、ヤマモトと出会ってからというもの、青山は本来の明るさを取り戻し、仕事の成績も次第に上がってゆく。
そんなある日、青山がヤマモトについて調べると、何と3年前に自殺していたことが分かる。
それではヤマモトと名乗る、あの男は一体何者なのか?
その真実が明らかになるラストに、誰もが涙する感動の物語。
登場人物
・青山隆 (工藤阿須加)
ブラック企業で働くサラリーマン。
生真面目な性格が災いしてか、営業成績が上がらず、いつも部長の山上に怒鳴られている。幼馴染のヤマモトと出会ってからは気分も一新し、仕事も順調に進んでいくのだが…
・ヤマモト (福士蒼汰)
大阪弁でいつもアロハシャツを着ている謎の男。
駅のホームで青山と偶然出会い、小学校時代の同級生だと名乗る。仕事で行き詰っている青山にとっては、的確な助言をしてくれる得難き友人になっていく。その明るい笑顔の裏に、実は大きな秘密を抱えている。
・五十嵐美紀 (黒木華)
青山の憧れの先輩社員
社内のエース的存在で、常にトップの成績を求められることにプレッシャーを感じている。しかし、その苦悩を他人に見せることはない
・山上守 (吉田鋼太郎)
青山の上司で営業部部長
過酷なノルマを課し、常にプレッシャーをかけ続け、成績の悪い部下を容赦なく怒鳴り散らす。現在の一番のターゲットは青山。
相関図やその他のキャラクター詳細については【こちら】(→消滅)
・スタッフ
原作:北川恵海
監督・脚本:成島出
主題歌:コブクロ『心』
「ちょっと今から仕事やめてくる」公式サイト(消滅?)
「ちょっと今から仕事やめてくる」公式Twitter
原作との相違点
原作と映画では大から小まで様々な変更点が存在していた。
原作は読んだけど映画はどうしようかな、映画は見たけど原作はどうしようかな。と思っている人たちの参考になればと思い、その原作との変更点の一部をここに示そうと思う。
※以下一部ネタバレあり
五十嵐先輩の性別
映画では、青山の先輩である五十嵐先輩は五十嵐美紀と、女性上司であった。
しかし、原作では、五十嵐先輩は男性上司であったのだ。
何も考えずに原作を読んでいっていると、初登場シーンでは青山が尊敬している先輩という印象を受け、性別まで言及されている描写はなかったが(口調がかなりサバサバしており、女性にしては乱暴な言い方だなと印象は受ける程度)、2回目の登場シーンでは五十嵐先輩の一人称が『俺』であったのだ。
もう一度読み直したよね、これ。自分の解釈が間違っていなかったのだろうかって。
おそらく、この変更は映画化にあたって仕方ないものなのではないかと思われる。
原作を読めば、女性が出てくるシーンが親しかなく、全体として95%以上男だけで物語が進んでいくのだ。さすがに映画化にあたって完全に男だけの世界を描くのは、海賊とよばれた男のように時代を描く(あの作品は会社としての女性の登場シーンはないが、家としての登場シーンはある)といった譲れない信条があるのでなければ、彼女がいない一人暮らしの主人公と、その男友達ヤマモトでは華がないからであろう。さすがに、映画に女性キャラが一人もまともに出てこないとなると色物みたさでくる人が釣れなくなる。
あともう一つ考えられるのは(こちらの方は前者のような理由ではなくもっとややこしく鬱陶しいものだが)、フェミニスト達への配慮といったところだろう。フェミニストたちは男女平等(女尊男卑?)を推し進めており、社会の中における女性の立場というものを男性同等(以上)にし、なおかつ面倒ごとはすべて男性に押し付けようと活動している。そのような団体、組織において、会社の中に女性が存在しないということは大変由々しき事態であり、顔が真っ赤になって怒る事態なのである。そこで、そのような創作活動において様々な障害をもたらしてしまう団体の配慮ということで原作では下の名前が存在していなかった五十嵐先輩にその鬱陶しさを押し付けたということだろう。(下手に同僚を女性にするだけではその団体は女性は出世がーなど騒ぐため)
このような2点によって今回の変更は行われたと思われる。まぁ、後者の理由は置いておくとして、前者の理由のみでもこの変更は仕方ないものと思われるし、改悪とは思わない。
シンゴジラなど最近は恋愛要素が映画内で描かれない作品も出ており、今作もその恋愛要素が描かれない作品であった。女性キャラをだし、恋愛要素を描くということをしてしまえばそれは改悪であり、世界観が壊れてしまうが、そうではなく、様々な団体への配慮にもなるのでいい変更であった。
青山の親の登場頻度
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映画において、青山の親の登場頻度と、物語、青山の心情変化に対する関わりは原作と比べて相当増えていた。
原作小説においては物語終盤に少し登場する程度であったが、映画においては物語序盤から大いにかかわってきていた。
この改変は、原作と変わっている個所の中で一番好きな改変部分である。
今作に、『自分と、自分を思ってくれる人のために生きる』というテーマがあり、そのテーマを強調するためには家族との関わりが不可欠である。
その時に、家族とはどのようなかかわりがあって青山は過ごしてきて、ヤマモトと出会い、どのような心情変化があって、最終的にどう家族とかかわるようになったのか。という流れを示さねばならない。それによって、親たちの思いというものがよりいっそう伝わってくるためである。
小説では、一人称視点で語られて、親が出てくるのは最後の一瞬であるので、専業主婦の共感を得られることは難しい部分もあったが、映画では親の気持ちというものを随所に描きちりばめられ、それに対して子供(青山)はどのように受け取ったか、どのような変化をもたらしたか。が描写されているので、主婦層の人もこの作品に対し共感し、感動を覚える部分がしっかり準備されているということである。
また、主婦層のみならず、この映画のメインターゲットである20代も親の気持ちをしっかりと感じることができる変更になっているので、この点は素晴らしいと思う。
ヤマモトの家族
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原作小説ではヤマモトの両親は健在で、大阪に住んでいる。
映画ではヤマモトは孤児であったと描かれている。
この変更はどういった効果があるのだろうか?
個人的に、この変更点があるからこそ、映画のみ、原作小説のみ、ではなく両方とも見て読む必要があると思う。
両親が健在ということは兄が自殺したあとの家族の関係性というものが見えてくる。
孤児という場合は、その関係性が全く存在しなくなる(子供の時に世話になったところとの関係は見えてくるが、実の親より得られる印象派希薄になってしまう)
一方、『お前を大切に思ってくれる人のためにある。残された者の気持ち考えたことがあるか?』というセリフは孤児のほうが強い印象を与えることができると思う。
親がいない。たった一人の家族。それを失ってしまい家族というものが誰一人として存在しなくなってしまったという状況だからこそ『自分を大切に思ってくれる人』というセリフがよりいっそう効いてくるのである。
このように、ここの変更は作品そのものを壊してしまいかねない、別作品にしてしまう変更点となっている。原作はヤマモトは自分の親のその後を知っているから青山に自分が親を見てという客観も含んだ言葉をかけることができる。映画では主観のみの言葉をかけることになる。そのような違いが生まれてくる変更なのだ。
だから、一方のみを消費するのではなく、両方とも消費してほしい。映画と小説、という媒体の違いだけでは収まらない違った感想が得られるだろうから。
最終結末
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ここを押してしまった方。これ以降の部分は双方共の最終結末を比較して書かれているので注意すること。見たくない場合はもう一度【閉じる】ボタンをおしてその下の記事の続きをご覧ください。
原作は最後に、仕事辞めた後ヤマモトが消えていて、青山は無職のあとどう過ごしたかわからない状態で、2年後にヤマモトと再会を果たし終了。その時ヤマモトは病院で働いている。
映画は仕事を辞めた後ヤマモトの過去を知り、ヤマモトが活動しているという国へ向かった。
映画制作にあたって、エンドをヤマモトとともに活動(仕事)させたいということであったと推測する。その時、病院という場所ではなく、日本の仕事から遠く離れた。その臭いを感じない外国、それも発展途上国を選んだということであろう。
だから、小説からは仕事はそこ一つではない。自分に合った仕事が”日本には”いっぱいある。ということを表していて、映画では仕事はそこ一つではない。”日本である必要はない”ということを表しているのではないだろうか?
つまり、ヤマモトの家族についての相違とともに映画と小説は仕事はやめたっていい。という主張までは同じであるが、その先の『生きること』というテーマでの主張は異なっているのではないだろうか?
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社訓
- 不平不満を言わない社員になれ。
――じっと我慢し謙虚に受け止めよう。
- 自己管理を怠らない社員になれ。
――熱があろうと這ってでも出勤すべし。
- 遅刻は十分で千円の罰金。
- 有給なんていらない。体がなまるから。
- 言われなくてもできる社員になれ。
――効率を上げるため行動は迅速に。
- やる気旺盛な社員になれ。
――仕事の後も自分の課題解消に真剣に取り組め。
- 常に難しい仕事を狙う社員になれ。
――向上心を止めるな。成功してもまだまだと思え。
- やる気があるなら「はい」の二つ返事で仕事しろ。
- 上司の指示は神の指示。
- 心なんか捨てろ、折れる心がなければ耐えられる
お、おぉ……ブラック企業の社訓やばい……
この社訓の中でまだましなものって5番目と7番目くらい?これをましと思ってしまう時点でもう日本の社会の闇に毒されているってことはないよね?
あと太字部分のみなら2番と6番も大丈夫だとは思う。ただ、その後に続く言葉は完全アウト。
この中で労基に駆け込めるのって3,4,9,10番の社訓かな?これはもう訴えていい。
一週間の歌
映画始まってすぐに流れたこの一週間の歌。ラップ調でサラリーマンに大人気と紹介されており、この『ちょっと今から仕事やめてくる』という題名に惹かれて見に行った自分はその歌詞を聞いておぉ!ほんとこれだよ!題名だけで釣ったという感じじゃないんだな!と思った。また、この歌詞が本当にいい!激しく同意します!
原作ではこの歌詞は主人公である青山隆が自分で作詞したこととなっている。以下、その超有名でCD発売されたら買おうと思っている一週間の歌の歌詞を示す。(原作小説P.45)
月曜日の朝は、死にたくなる。
火曜日の朝は、何も考えたくない。
水曜日の朝は、一番しんどい。
木曜日の朝は、少し楽になる。
金曜日の朝は、少し嬉しい。
土曜日の朝は、一番幸せ。
日曜日の朝は、少し幸せ。でも、明日のことを思うと一転、憂鬱。以下、ループ
いやぁ、本当にいい歌詞だ。
個人的に木曜日が一番しんどかった気がするけどまぁそこは人それぞれだろうな。